また今回も、自分メモの中から皆さんにもそのサマリーをおすそわけしたいと思います!
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20年前は、みんなで手を取り合ってなんとか始めたリーグからスタートして、今では日本人がヨーロッパのトップリーグで当たり前に活躍するようになり、Jリーグ自体も大変盛り上がっている。やってきて本当に良かったと思う。
私は当時、ブラジルでスポーツ担当大臣をやっていたが、日本でしかも2部の住友金属に呼ばれて来たわけだが、誰にも知られていないようなアマチュアチームからプロを目指していこうという考えが気に入ったので決断した。自分の人生のモットーは「挑戦」なので、その挑戦をぜひやってみたいと思った。
そういうわけで、日本に来ること自体は問題はなかったが、既に2、3年現役を離れていたので、プレイングマネージャーとして、つまりプレイヤーとして活躍できるのかが不安だった。
体さえ動けば、100を語るより体で見せて指導ができると思った。私はそれが一番の近道だと思っている。事実、実際に私のプレイを間近で見てもらって周りの成長は早かったと思う。
当時、住友金属として30試合のうち22試合に出場し、21ゴールした。順位も2位だった。
ナビスコカップに参加する権利を得て最高のスタートをすることができた。その後、Jリーグの最初の試合でハットトリックを達成。ファーストステージで優勝することもでき、身をもって結果を示すことができた。
当時をよく覚えている。鹿島の初代社長から、急がなくてよい、3〜4年はチーム作りに徹してくれればよいし、責任も求めない、と言われた。ただ、私はナビスコカップでべス4に入れるようなチームなんだから最初からタイトルも狙えると思っていた。社長は本気に思っていなかったが、私は真剣にそう考えていた。
当時考えてみると、ナビスコカップの結果が良かったので周りは楽そうに見えたかもしれないが実は中は大変だった。当時、チームの半分はプロを目指していたが、半分は企業に残りたいというメンバー。
ということで当時、本多技研から6名ほど(黒崎、長谷川、本田など)を呼び寄せた。あとはブラジルからもアルシンドととサントスを呼んだ。当時、本田技研の協力や住友金属の後押しがなかったら本当に大変だったと思う。
その後、日本代表監督のオファーを受けたが、実に難しい決断だった。鹿島時代からオファーが受けていたが、自分にはそのビジョンがなく断っていたが、あの鹿島が育ってきたということは日本代表自体ももしかしたらできるのでは、という自信が芽生えてきたので引き受けることにした。最後はワールドカップにも無事出場できたが、正直あの代表監督時代の4年がなかったら、その後の自分の人生も明らかに違っていたと思う。
当時、自分にオファーを出した川淵チェアマンもおそらく難しい決断だったと思う。何しろ、自分には監督という経験はなかったのだから。そんな自分に対してオファーを出してもらったのだから、その誠意には応えたいと思った。
日本のメンバーを見たときに、ブラジル代表などほかのチームと比べての違いは特に感じなかった。基本、この選手はピッチの中でどのような働きができるか、ということを見極められれば、選手たちのベースは同じだと思っている。なので、選手選びのために、少しでも多くの選手たちの練習や試合を見ることに精力を注いだ上で選手の構成を考えた。その作業がしっかりとできれば人種は関係なく、基本は同じことであると思っている。
代表監督の大変さは、クラブチームの監督と違って、選手たちとなかなか一緒にいられないことである。クラブチームなら、選手たちのコンディションを24時間把握することができるので、圧倒的に楽。一方で代表監督は、選手たちのコンディションをいつもチェックできるわけではない。招集したとしても海外から来られない選手もいる。
今でこそFIFA(国際サッカー協会)は、代表に重きを置いてくれるが、当時は代表チームに48時間しか選手を派遣してくれなかった。たとえば、月曜日に代表チームに合流してもらって、火曜日にちょっと練習をして水曜日にはもう試合。ほとんど準備時間がないまま試合に出して、しかも結果は出さなければならないわけで、それこそ本当に大変だった。
私は、選手の自主性を重んじている。自分の哲学でもあるが、そもそも「自分たちはプロである」という自覚を常に持たせたいと考えている。たとえば、日本代表選手なら、選手たちは一億人の代表としてピッチに立っているわけである。選手たちの背中には常に日本の一億がある。その責任を持ってピッチに立ってほしいと常に言っていた。そして、監督の言うことだけを聞くようでは責任がない。自分で自覚を持って望んで欲しいので、選手の自主性を重んじるようにした。
また、自分はプロの先輩として、これからの若い人たちに伝えたいことがある。それは、一人だけでサッカーをやっていると思ったら大間違いだということ。家族や友人や大切な人たちの誇りを背負ってプレイしなければならない。すべての選手たちにその考えを持ってほしい、意識してほしい。そして夜寝るときに、本当に今日はすべて全力を出し切れたかを自問自答してほしい。もしそうでなかったら、翌日にはそれを取り戻すべく全力を出し切ってほしい。
それぞれの選手たちの多様な個性を結集させ、それぞれの能力を出させる指導法については、これはすごく難しいところだった。日本文化をリスペクトはするが、サッカーとなると、そもそも海外のスポーツだし、敵も外国。そこで戦うためには、外国の文化ややり方も取り入れる必要があった。サッカーは、チームももちろん大切だが、最後は一対一の強さ、最終的には個人の強さにかかっている。つまり、その局面で勝てることが重要。
例えばバルセロナを例にとると、スーパースターのメッシ。メッシがいるのといないのではバルサは別物になる。最後に決定的なパスを出すとか、最後は自分で切り抜けていく、というのはメッシじゃなきゃできない。でも、それは決してメッシのエゴ(出る杭)ではなく、チームの勝利には重要な存在。でも日本では、そういうことをすると、自分がでしゃばりすぎているとか、もしミスをしたら自分に責任がかかるなどと考えてみんな消極的になってしまう。それではダメ。
今の代表チームは、香川のようなすごい選手がいる。本田もいる。本田がいなくても誰かがいる。そのように打開できるような選手が複数いるのが強い。
私が持つ理想のリーダー像は、「自然発生的に、その人の背中を見て周りがついてきてしまうような、その人の一言が周りを納得させてしまうようなカリスマ性」。そんな人が自然にリーダになっていくと思う。つまり、そういう吸引力がある、掌握できる能力がある人が、しかもそれを自然発生的にできてしまう人が真のリーダーではないかと思う。
これからリーダーになろうとする人は、自分の過去や今の自分がなぜあるのかを意識し、行動の一つ一つをナチュラルにすることが人を引き付けることにつながると思う。
「信頼」を勝ち得るために、自分が意識しているのは、チームメイトに強制はしたくない、余計な要求はしたくない、ということである。10人いればそれこそみんな個性が違う。それが一枚岩にならなければ勝てないことを考えれば、つまり、AさんができることをBさんに求めても仕方ない。それぞれができる能力を最大限に引き出すことがチーム力につながる。自然にその人が自分の能力を出しやすい環境を作ることもリーダーの役目だと思う。
日本は少子高齢化というが、ブラジルも同じ状況になってきている。これだけ経済に不安定なところがあると、支出を下げたいという気持ちも働き、もうあの時代には戻れないと思う。。。でも心配はしていない。今まで3人の子供がが2人、2人だったのが1人ということであれば、今まで分散していたものを集中してクオリティの高い子供を育てればよいと考えている。これはスポーツの世界のみならず経済界も一緒だと思う。我々ができることはたくさんあるはず。
現在自分が手がけていることは、300万名もの小学生が途中で小学校に行かなくなってしまうというブラジルが抱える大きな問題への取り組み。色々な事情があるにせよ、これは大変大きな問題である。
ブラジルでは、サッカーを愛する気持ちはみんなにあるので、45,000名もの子供たちをサッカースクールで教えている。その参加条件は、「学校に必ず行っていることと一定の成績を収めること」。これがないと指導が受けられないルールになっているのでみんな必死になってがんばっている。
300万名にはまだまだほど遠い貢献だが、これを続けて充実させていきたいと思っている。
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一流のプレイヤーとして、そしてリーダーとして活躍してきたジーコ氏の言葉の一つ一つには自信と確信がみなぎっているように感じました。リーダーシップ論を聞きにきたはずが、一人のジーコファンとして話を聞きいってしまったような気がします・・・。
スポーツの哲学は、ビジネスにも実生活にも、そして教育にも確実に適用できるものだと考えています。言いかえれば、結局のところ、どんな分野でも基本は一緒なのだ、という当たり前の一言につきると思います。
そして彼が強調していた、「何事にも全力で取り組むこと」。これを継続できていれば、勉強でも仕事でも必ず成功につながる、ということなのだと思います。